鎖を踏みしめて(弁護士 田中 翔)

  • 2017.05.20 Saturday
  • 00:00

 平成28年度犯罪白書の統計によれば、検察官が勾留請求をすれば、97.4%勾留されます(平成27年)。
 裁判官が、検察官の勾留請求を認めないことはごくわずかしかありません。
 勾留請求が却下されたり、勾留決定に対する不服申立てが認められたりすれば、弁護士の間ではちょっとしたニュースになるくらい、珍しいものです。
 証拠を隠滅するおそれがある、逃亡するおそれがある、こうした「おそれ」により、多くは20日間(逮捕されてからカウントすると23日間)、警察署の留置施設に閉じ込められることになります。
 しかも、弁護士以外と面会ができないという「接見禁止処分」もついてくることがあります。
 昔に比べれば少しだけましになったようですが、これが昔からの日本の刑事裁判の姿です。

 しかし、日本以外に目を向けたとき、これは必ずしも常識とはいえないようです。
 実は先日、ニューヨークに行ってきました。ニューヨークの公的弁護制度を視察するためです。
 身体拘束がされている人に対して、どの段階でどのように弁護士がつけられるのかを調査しに行ったのですが、ニューヨークでは、逮捕された人のうち70%くらいが、逮捕されてから24時間で釈放されることを知りました(ちなみに、ニューヨークでは多くの場合、最初に裁判所に連れて行かれる段階で弁護人がつけられるとのことです。)。
もちろん釈放された人は無罪放免ということではなく、その後自宅から裁判所に来て有罪か無罪かの判断を受けることになります(日本的にいえば在宅事件)。
 ニューヨークの裁判所で実際に裁判官が被疑者を勾留するかどうかの手続を見学しましたが、手錠をかけられて法廷に入ってきた被疑者が次から次へとその場でどんどん釈放されていきました。
 日本の刑事司法を見てきた身からすれば、これはなかなか衝撃的な光景でした。こんな風にどんどん釈放されるなんてありえないからです。

 もちろん日本とニューヨークを単純に比較することはできません。制度の仕組み全体が違いますし、刑事事件の件数も違えば国民性も違います。
 ニューヨークでは、釈放されてそのまま逃げてしまう人もそれなりにいるようです。多少は逃げられてもかまわない、そういう割り切りがあるようです。もし日本で被疑者が逃亡して見つからなかったら大問題になるはずです。ここらへんの感覚の違いも、おそらく国民性の違いといえるでしょう。
 でも、証拠を隠すかもしれない、逃げるかもしれない、そんな「おそれ」で、有罪になってもいないのに、長い間外に出られず、家族とも話せず、ときに仕事を失い、ときに健康も害するのが日本の制度です。
23日間も閉じ込められたら、サラリーマンは仕事を辞めなければならないかもしれません。自営業の人なら、倒産するかもしれません。
 あまりにつらくて、拘束から逃れたくて、やってないのにやりましたと認めてしまうかもしれません。
 勾留は刑罰ではないのに、まるで刑罰を受けているかのようです。
 拘束される人のことを全然考えないような制度より、釈放されたら逃げちゃう人も少しいるけれど、ちゃんと人権や自由に配慮している制度、こっちのほうがいいのではないか、私はそう思いました。

 ニューヨークの制度を見てきてから日本の勾留制度を考えてみると、とても暗い気持ちになってしまいます。
 しかし、少しずつでも制度は変えられるはずです。35年くらい前、ある刑事法の教授が日本の刑事裁判を診断して、「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」といいました。きっとその時代に比べたら、日本の刑事裁判はよくなっているはずです。
 これからも、少しずつ、ほんの少しずつでも、日本の刑事裁判がよくなっていってほしいと思います。
 現状を肯定せず、常に前を向いてこれから闘っていく。そんなことを、自由の女神が見守るニューヨークで考えていました。
 これからも、被疑者の身体拘束からの解放に向けて、努力していきたいと思います。

 

  弁護士 田中 翔

北パブコラム(第25回):少年事件と「可塑性」(弁護士 岡田常志)

  • 2017.04.20 Thursday
  • 00:00

1 最近(といってももう大分長い間ですが)少年法の適用年齢引き下げが議論になっています。少年法が適用される上限を20歳未満から18歳未満に下げよう、という動きです。つまり、少年法が適用される子どもたちの対象を狭くしよう、という動きです。

 これに対して、日弁連は反対の立場をとっています。既に関心のある方は、一度は見たことがあると思いますが、このリンクにあるようなリーフレットも日弁連で作成されています。

 

 少年事件の手続は、成人の刑事事件の手続とは多くの点で違いがありますが、その理由の1つに、『少年には「可塑性(かそせい)」がある』という根本的な考えがあります。私自身、「(少なくとも)20歳まで人には可塑性がある」という立場なのですが、リーフレットに載っている内容はさておき、今回は、この「可塑性」について少しお話ししようと思います。

 

2 「可塑性」という言葉はあまり聞きなれない言葉だと思います。これで「かそせい」と読みます。辞典で引くと以下のような説明が出ます。

 

「変形しやすい性質。外力を取り去っても歪みが残り、変形する性質」

(広辞苑 第5版)

 

可塑性のある物の例として、粘土が挙げられます。粘土は、こねたらこねた形の通りにそのまま残ります。こねる前の形がどうだったかは関係ありません。こねた手を離しても、元に戻ったりせず、そのままの形が保たれます。

 粘土と同じで、今の少年の心や考え方がどういう形でも、これから幾らでも変えられるし、変えた後の形を保つこともできる。それが、少年審判の中で語られる「可塑性」です。つまり、少年審判は、「今がどういう状況でも、少年はこれからいくらでも今後の人生を変えることができる」ということが前提になっています。そして、少年法は、「少年がどうすればこれからの人生をよりよく過ごせるか」ということを第一に考え、そのためにどうすればいいかを模索するために、成人の刑事事件とは全く別の手続となっているのです。

 

 少年審判は、少年の過去に対する罰を決めることが目的ではありません。少年審判は、少年に「反省しています」と言わせることがゴールではありません。

 

3 このような話をすると、「犯罪をした少年に本当に可塑性があるのか」という議論がたびたび起こります。

 私自身は経験的にも「どの子にも可塑性はある」と思っています。ただ、それには「周りの大人たちが、けしてあきらめない」という非常に厳しい条件がつきます。

 私は、少年事件以外にも、NPOの活動や、その他色々な場で、色々な状況にある子ども達と関わるようにしています。私が子ども達と遊んでいると、中には周りと上手くコミュニケーションが取れず、友達と喧嘩してしまったり、その場を飛び出してしまう子がいます。子ども達と遊ぶ時間が終わり、一緒にいた大人達に気になった子の様子を伝えると、「実は・・・」とその子が、家族や学校の関係などでいろいろなトラブルやトラウマを抱えている、という話が出ることがあります。

 私は、仕事の合間を縫って遊びに行っているので、子ども達とは一緒にふざけて遊ぶだけなのですが、通っていくうちに、その子の小さな変化に気付くことがあります。それは、あいさつを返してくれたり、ふとした瞬間に目を見て話してくれたり、笑顔で言葉を返してくれたり、言葉遣いにトゲトゲしさがなくなる、といった些細な変化です。そういった変化に気付いたときに、「この子変わりましたね」と周りの大人達に話しかけると、大概、「あのころは本当に大変だったんですが〜」と嬉しそうに苦労話が始まります。

 その子の背景にある問題が根深いほど、「あいさつを返す」「目を見て話す」「すぐに怒らなくなる」「周りに優しい言葉をかける」といった、一見些細な変化にも時間がかかります。長い時にはこれだけに数年かかることもあります。冷えて固まった粘土ほど、まずはたくさんこねて柔らかくしないと好きな形にすることができません。まずはたくさんの手で、温めて、力いっぱい時間をかけてこねる必要があります。トラブルを抱える子どもが可塑性を発揮するには、「信頼される大人(達)が、ずっと寄り添う」ことが必要です。

 まずは、周りの大人達が、背景にある問題を解決したり、信頼関係を築くなどして、ガチガチに固まったその子の心をほぐすところから始まります。固まっていた心をほぐしていくと、「胸に溜まっていたもの」がどんどん吐き出されていきます。吐きだし方は人それぞれで、色々な形があります。愚痴や相談だけでなく、誰かへの暴言だったり、わがままだったり、暴力だったりするときもあります。そういった子どもたちから吐き出されてくるものを周りの大人が一生懸命受け止めていきます。そして、落ち着いたと思ったらまた何かの拍子に不安定になったり、何度も失敗と成功を繰り返しながら寄り添い続けて、やっと少しずつ子ども達は変わっていくのです。

 変化に数年かかる、というと「そんなに手間はかけていられないから、成人と同じように扱っていいのではないか」という意見も出て来くるかもしれません。しかし、私としては、その少年のその後の数十年に及ぶ長い人生を考えれば、十分見返りの大きいものではないかと思います。何より、目の前の子が笑顔になったり、立派になってくれるのを間近で見られるのはとてもうれしいものです。私は子どもたちの笑顔に会えるたびに、信じて良かったと思うと同時に、もし可塑性を信じてくれない大人たちにしか会えなかったら、この子は今笑顔でいられるのだろうかと、とても怖くなります。

 

4 私の個人的な意見はさておいても、現行の少年審判の手続は、少年には可塑性がある、少年の未来はこれから変えられる、という前提で制度が作られています。そうである以上、弁護士には、その制度の目的にそった活動をすることが期待されます。

 「少年の可塑性を信じて最後まで付き添う」というのは、誰もができることではありありません。そして、大人がその少年の可塑性を信じなければ、その少年の可塑性は結果的に失われてしまいます。

 もし、これを読んでくれた少年がいてくれるのなら、気軽にまずは相談してほしいですし、また大人の方々も、ご自身のお子様や、身近な子どもたちが事件を起こしてしまったり、巻き込まれてしまった際には、ぜひ当所までご相談してくださればと思います。

 

少年の未来のために、精一杯付添人として活動させていただきます。

弁護士 岡田常志

北パブコラム(第24回):外国映画から読み説く法律の世界  船ぅ織螢△任藁ズГ出来ない?〜(弁護士 石田純)

  • 2017.04.05 Wednesday
  • 00:00

 外国映画を観る楽しみの一つとして、単に物語を楽しむだけでなく、そこに描かれているその国、その国の「生活」を感じることがあると思います。そして、皆さんはあまり意識されないかもしれませんが、「生活」の影には「法律」が潜んでいることが多いので、外国映画を観ているうちに、様々な国の法律を知ることができます。そこで、これから、不定期に、外国映画から法律というものを考えてみたいと思います。

 

 「結婚」という制度が実は国や地域によってかなり制度が異なるということと同様に、「離婚」についても国によって大幅に制度が異なっています。

その中でも、キリスト教のカトリック系の考え方が強い地域では、離婚することが認められていないと言うような話を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。そして、そのような国の一つとしてイタリアが挙げられることも多いようです。

そのような情報が広まった理由のひとつとして、ある映画があげられます。それは、(日本では特に「鉄道員」「刑事」などで有名な)イタリアの映画監督であるピエトロ・ジェルミが1961年に監督した「イタリア式離婚協奏曲」です。この作品は、法的に離婚が認められていないことから、夫が、妻に対して不貞をするように仕向け、名誉のために殺害したことにしようと計画する話です。一見シリアスな話ですが、実際には軽妙な語り口で、喜劇として、おもしろおかしく演出されています。なお、ピエトロ・ジェルミは、その後、同様のテーマで「誘惑されて捨てられて」という映画も作っています。

 

 映画の影響かどうかは分かりませんが、イタリアでは、その後、1970年に「婚姻解消の諸場合の規律」という法律が制定され、一定の条件を満たした場合にのみ裁判によって離婚することが認められるようになりました。ただし、その場合でも裁判所が認定した別居期間が3年以上経過していることが要件となっており、かなり厳しい要件となっていました。その後、2014年から2015年にかけて、離婚手続きが簡略化し、かつ、別居期間が場合によっては半年でも良くなったことから、2015年の離婚件数が8万件を超え、前年比57%増となったということです。

 

 日本においては、協議離婚と裁判所を介して行う離婚が存在しますが、当事者が合意すればその理由は問わないなど、離婚について比較的寛容な制度となっているようにも思われます。

 しかしながら、相手が離婚に同意しなければ、離婚が認められるのは不貞行為や悪意の遺棄(「一切生活費を支払わない」など)といった理由またはそれに匹敵するような重大な理由が必要とされており、そう簡単に離婚が認められるともいえません。

 そのようなことも含めて、離婚の御相談をお受けしていると、「相手が言うのだから離婚しなければならない」、「3年別居したら必ず別れることが出来る」などと、離婚が出来る/出来ないという入口の段階で、間違った知識を持った方も多くいらっしゃいます。

弁護士に相談をすれば全てが解決するというような話ではありませんが、良くも悪くも人生の一大事である「離婚」、一人だけで悩んでいるようであれば、専門家に相談されることをお勧めします。

弁護士 石田純

北パブコラム(第23回):命の値段、死刑のコスト(所長弁護士 大谷 恭子)

  • 2017.02.02 Thursday
  • 15:58

 最近、歌人斉藤斎藤「人の道、死ぬと町」(2016年・短歌研究社)という歌集を手にした。彼は、この歌集に宅間守のことを、「今だから、宅間守」と題して、章を立てて歌っている。この歌集、歌の前後にポイントを落として付された一文も含め、秀逸である。

 

入浴を終えた死刑執行人には、2万円の特別手当がその場で支給される。

(税金の使い道として悪くない)

午後は休みを与えられる。

一億三千万本の人さし指が宅間守の背中を押した            (同書65頁)

 

 死刑執行員制度は、導入されないだろう

穴から汁たれ流しつつ宙吊りの宅間守の欽ちゃん走り          (同書65頁)

 

殺さずに牢屋につないどけばいい 水でよいのに飲む烏龍茶

という歌を歌会に出したこれは後日の話。選歌してくれた或る歌人が、わたしの記憶ではこう批評する。「死刑と終身刑の差異、水と烏龍茶の差異とが微妙に重ねられていて、口語短歌としてよくできているのではないでしょうか。この方はおそらく死刑廃止論者なのでしょう。大きな問題ですし、ここは死刑について論ずる場ではないので議論は避けますが、理想と現実、ということはあるのかな、と。死刑囚をすべて終身刑にすれば、それなりの税金が使われるわけですし、理想論はともかく、現実的にはどうなのかな、と個人的には思います」。

  彼女が話し終えてから、わたしが聞き終わるまで、二十秒ほどあっただろうか。

  歌会は五時に終わり、開いている居酒屋を探しながら駅のほうへと歩いた。梅雨が明けて間もない神戸の午後五時は真昼で、笑えるほど暑かった。みんなからはぐれないよう歩いていると店が決まって、或る歌人は駅に向かい、わたしは居酒屋に入り、冷たいお絞りでごりごり首をぬぐう。                 (同書303頁)

 

歌集は偶然手にしたものだった。娘が机の上に置き去りにしてあったものをぱらぱらと

めくり、目に飛び込んできた。そして若き歌人の感性に驚き、耳には瞬時に届いているはずの話を、「彼女が話し終えてから、わたしが聞き終わるまで、二十秒ほどあったろうか」と書き記されたその二十秒に込めた思いに、いたく胸を突かれた。二十秒は長い。まるで地球の裏側からの電話よりももっと、時差を伴い、遠く離れている。

 

 私が初めて、死刑と終身刑についてのコスト論を読んだのは、1980年代、日弁連に拘禁法対策本部が立ち上げられ、そこで死刑確定者の処遇問題の検討をした時だった。当時、アメリカでは、このコスト論が盛んだったように思う。私は、そのドライさを嫌悪し、野蛮だと思った。その後も、アメリカは、コストだけではなく、死刑の執行方法について、苦痛が少なく、かつ確実に殺せる方法を比較し、論じている。これに呆れ、このような議論は日本では起きないだろうと漠然と考えていた。なぜなら、日本では死刑は秘密裡に執行され、コストも苦痛も明白にされていなかった。論議する材料すらなかったと言える。

 しかし、アメリカでのコスト論や執行方法の論議は、結局のところ、死刑制度存置の理由とはならなかった。苦痛が少なくかつ確実に執行できる方法に対する懸念は払拭しえず、特に、コスト論については、終身刑はお金がかかる(から死刑制度は必要だ)という結論には行きつかず、今では、死刑にはお金がかかる(から死刑制度は廃止するべきだ)との方向にある。これを決定的なものにしたのが、スーパーデュープロセスである。

 

 スーパーデュープロセスとは、1970年代にアメリカ連邦最高裁で、死刑判決には通常の手続きよりも手厚い手続きが必要であるとの複数の判決が続き、これを受けて、2003年、裁判官らも含む全米40万人の法曹協会(ABA)が、死刑事件について、捜査から公判、上訴、確定後の再審、執行直前の停止の申し立て等死刑事件の全過程において、現時点で考えられる法的手続きのすべてを尽くすべきであるとし、これについてガイドラインを発表し、これを実際的にも保証したものである。

 たとえば、質の高い弁護を提供することとして、二人以上の質の高い弁護人を付けること、心理・精神学、量刑判断に影響を与える調査能力を持った専門家を交え、その人たちがチームを組まなければならず、弁護チームとして可能な限り本人に有利な事情を出さなければならない。犯罪事実だけではなく生い立ちからすべてにおいて。これらはすべて公費で賄われる。判決は全員一致でなければならず、死刑となった場合は本人の意思に関わりなく上訴され(必要的上訴)、死刑が確定してからも再審請求について公費で弁護人がつく。さらに執行前には、執行停止の申し立てが可能となるよう、最低2週間前には本人および家族に執行の告知をしなければならない。要するに死刑が回避される可能性のすべてを尽くすべきだとしているのである。

 

 結局、一人の死刑判決を確定させ、執行するまでに、200万ドル(1ドル100円としても2億円)かかり、州財政を圧迫しているとの報告もなされている(2013年日弁連アメリカテキサス州終身刑視察報告書より)。このためもあって、アメリカにおいては、死刑判決は実際も減少している。

 取り返しのつかない刑罰だからこそ可能な限りの手続きを保証する、とすると、そこまでしなければならない刑罰は必要なのだろうかとの疑問となり、死刑制度そのものを揺るがそうとしているというのだ。

 コスト論は、人の命を奪うためには最大限の法的手続きを尽くさなければならないという理念を受け入れている限りは、ドライではあっても野蛮ではない。命の重さを共有し、それに最大限の法的手続きで応えようとしている。

 

 しかし、日本において死刑と無期(終身刑)のコストが語られるときは、抽象的であり、ほとんど根拠のない感情的な決めつけである。誤りが避けがたい裁判において、それでも無辜の人を処刑することがないようにするために、どこまで法的手続きを尽くすべきかという議論もなく、数十年執行されずにいる死刑確定者の存在も意識しない。彼らは再審を求め、近時も、袴田巌さんが、確定後34年を経てようやく再審が開始された。あるいは、執行されずに病で獄死する人もいる。私が受任した死刑確定者のうち一人は確定後25年、一人は18年で獄死した。(もちろんこの間、手弁当で再審請求し続けたことになるのだが。)

要するに、死刑は終身刑よりもコストは安いというのは、死刑事件の審理にお金をかけず、確定後、間を置かずして執行することを前提としている。

私の確定囚の獄死のニュースに、だから早く執行すべきだったと、ネットに意見が流れた。終身刑じゃないんだから、と。死刑だったのに事実上終身刑にしたのは税金の無駄遣いとでもいうのだろうか。

死刑確定後、数十年を経てようやく再審が開始することもある。だから執行できないのだ。これは取り返しがつかない死刑という刑罰の性格上、法も当然に予定していることなのである。

 

 日本の死刑は、死刑だからという理由ではお金をかけない。宅間守はその最たる例である。彼は、弁護人がした控訴を取り下げ、結果、確定後1年で死刑が執行された。日本では必要的上訴どころか、上訴しないと確実に執行が早くなる。彼の死刑の判決を判断するまでに要したコストは、一審の国選弁護費用と精神鑑定費用、合わせて100万には達しただろうか。

 

 今や、先進国で死刑制度を残す国は、アメリカ(2015年末現在、法的に廃止をした19州を除く)と日本だけである。そして、日本は、人の命を奪うからには最大限の手続きをしなければならないとの意識もなく、犯罪者を処分するのにお金をかけるべきではないとの意識が漠然とあるとしたら、これはもはや先進国とはいえない。残念ながら、アメリカよりも野蛮な国であると言わざるを得ない。

 

 斉藤氏と、選評をした「或る歌人」の差はどこにあるのか。税金で人を殺すことは1億3000万の国民みんなで殺すことだと思えること、見なくても絞首刑となった男が宙ぶらりんとなる姿を思い描けること、この感性と想像力の差は大きい。しかし、より大きな違いは、事実を知らずして、かつ想像力も希薄であるにもかかわらず、物事を断定し、人を切る、その傲慢さにあるように思われる。この傲慢さこそが、寛容と共生の対極のものであり、死刑制度を支えている。

 

 そして、寛容と共生を求める精神は決して大胆不敵なものではない。犯罪の恐怖におののき、身をすくませる小心さと同居する。

 

 斉藤斎藤氏の先の歌集からもう一首紹介したい。

 

 Imagine there’s no PRISON

怖いから仮釈放はしないでと嘆願書出すオノヨーコぼくら       (同書65頁)

 

 付された注によると、1980年に射殺されたジョンレノンさんの妻オノヨーコさんが、射殺犯の仮釈放申請に対し、これを認めないよう、司法当局に文書を出していたことが、2004年10月7日の朝日新聞で報道されている。射殺犯は無期刑(20年以上の服役で仮釈放が申請できる)。

 

 かけがえのない人を殺された悲しみや怖さは、20年たっても薄らぐことはない。被害者遺族としてせめて言えることは、怖いから仮釈放はしないでね。いつか私たちの社会に戻ってくる、でもまだ私はあなたが怖い、そんな被害者の気持ちを加害者に伝えられることが、生きた人間同士の関係として素直で優しくて、私はこの一首が大好きだ。

「ころせ」と言わしめるよりも、ずっといい。

 

追記

 斉藤氏の短歌には、「想像してごらん、監獄がないことを」の一文が添えられている。ご存知ジョンレノンのイマジンをもじっている。イマジンの歌詞は以下のように続く。

 

 Imagine there’s no countries

  It isn’t hard to do

Nothing to kill or die for

  And no religion too

  Imagine all the people

  Living life in peace

  You may say I’m a dreamer

  But I’m not the only one

  I hope someday you’ll join us

  And the world will be as one

 

この世界は犯罪にまみれ、監獄がなくなるなんていうことはあり得ない。それでもそれを夢想することができるのだろうか。

斉藤氏に脱帽である。

 

弁護士 大谷 恭子

 

 

 

 

 

北パブコラム(第22回):職務質問を拒否することはできないのか(弁護士 諸橋 仁智)

  • 2016.10.25 Tuesday
  • 10:27

 警察官からの職務質問は拒否できないのでしょうか。

 警察官から声をかけられて、「カバンの中身を見せてください。」などと協力を要請された経験がある方は多いでしょう。

 用事があって急いでいる、所持品を他人(警察官)に見られたくない等、理由は様々ですが、職務質問に協力したくないこともあると思います。

 

 実際のところ、職務質問への協力を拒否することは非常に困難です。「協力しません!」とはっきりと拒否の意思表示をしても、警察官はあなたの行く手に立ちふさがり、「そんなこと言わないで、お願いしますよ。」と執拗に協力を求めてきます。その場から立ち去ろうとすれば、あなたの肩や腕に手をかけて、その場にとどまらせようとするでしょう。

 

 このような警察官の強引な行為は許されるのでしょうか。

 警察官職務執行法2条1項

 「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者( 頬瑤牢に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者(◆砲停止させて質問することができる。」とあります。つまり、“蛤瓩侶疑がある者や犯罪の参考人的立場の者を、停止させて質問することができるのです。

 しかし、「停止」させるとは、相手方が自らの意思で停止するように求めることができるにすぎません。「行かないで下さい。」等の説得は許されますが、「協力しないのならば逮捕する。」等の心理的な強制を加えることは許されません。

 では、肩や腕に手をかける行為はどうなのでしょうか。このような行為は、あまりに強引で違法のようにも思えます。しかし、このような行為も、「相手方を説得するための行為」として、違法とはならないとされています(昭和51年3月16日最高裁決定)。

 

 以上の通り、職務質問において警察官は、相手方を説得するために、しつこくお願いをすることや行く手に立ち塞がること、肩や腕に手をかけて立ち去らせないようにすることができるのです。

 

 しかし、それでも「絶対に職務質問に協力したくない!」という場合は、警察官からの説得に対し、粘り強く拒否の意思を表示し続けるしかありません。結局、警察官に許されているのは説得をすることなのですから、説得をされた上でも捜査に協力したくないという強固な意思を表明するのです。

複数の警察官に囲まれて長時間の説得をされるわけですから、大変なプレッシャーです。警察官は体育会系出身が多いですから、体は大きく、説得には迫力があります。根負けして(不本意ながら)、職務質問に応じてしまうことが通常のようです。

 

 ところで、職務質問の過程で薬物犯罪の嫌疑が高まったとして、警察官が強制採尿令状や捜索差押令状の発付を請求することがあります。この場合は、純粋に職務質問として行われている段階の次のステージに移行して、より強引な行為も認められるとする考え方が主流です(二分論,平成22年11月8日東京高裁判決参照)。

 しかし、令状の発付は裁判官が関与しますが、令状を請求すること自体は警察官の判断だけでできます。裁判官が審査をする前の段階であるのに、令状を請求しただけで警察官の職務質問の権限が大きくなるという考え方には違和感を覚えます。最近の判例では、二分論を否定して、令状請求後の警察官の強引な行為を違法とした判断がなされました(平成27年3月4日東京高裁判決)。

 

 普段、交番で道案内などをしてくれる「お巡りさん」は、とても親切で頼りがいのある存在です。しかし、犯罪の嫌疑が認められる相手に対しては、普段のやさしい「お巡りさん」からは想像できない強硬な態度に変わります。

 犯罪予防のためとはいえ、警察官の行為は目的のために必要最小限度のものでなければなりません(警察比例の原則,警察官職務執行法1条2項)。職務にまい進するあまり、行き過ぎた行為をすることは許されません。最近の判例では,警察官が捜査対象者の車にGPSを取り付けた捜査が違法とされました(平成28年6月29日名古屋高裁判決)。

 

 違法な捜査によって収集された証拠には、証拠能力が認められません。警察官の強引な職務質問によって収集された証拠の証拠能力を争いたい場合は、当事務所までご連絡下さい。

 

弁護士 諸橋 仁智

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